馬刺しっていつから食べられているの?
日本にどのように広まったの?
そのような疑問を抱いた方もいるのではないでしょうか。
実は馬刺しの歴史は非常に古いのです。
675年に日本最初の天皇・天武天皇によって肉食禁止令が出されたという記録があるように、日本では古代から馬肉は食べられていたようです。
モンゴルから日本へ輸入された馬。
その肉を食べるという習慣は古代からあったようです。
しかし馬肉と言うものを一気に広めた人物が戦国時代にいました。
それまでは馬肉と言うのはあまり食べられていなかったようなのでしが、ある名将によって馬肉が一気に日本に広まっていったのです。
その馬肉を広めた人物が「加藤清正」です。
戦国の世を制定した豊臣秀吉の側近として活躍した加藤清正。加藤清正は「賤ヶ岳の七本槍」であり、熊本城の城主でもあります。豊臣秀吉の天下統一に大きな役割を果たした名将です。
そんな名将が馬肉を日本に広めて行きました。
挑戦出兵が大きなカギになる
豊臣秀吉が天下統一を果たしました。
それまで混乱し続け荒れ果てた日本がようやく平和な国になったのです。
しかし豊臣秀吉の欲はそれで終わらなかったのです。日本と統一したら今度は朝鮮まで統一しようと考え始めました。
そこで豊臣秀吉は大名に命令を出し朝鮮へ出兵させるのです。
この朝鮮出兵で豊臣秀吉は大名からの支持を失い衰退していったと言われています。
しかし、馬刺しにとってはこの出来事は大きかったのです。
馬肉が疲弊した兵を救う
疲弊しきった兵たち。
その中には加藤清正もいました。
先陣をきった加藤清正は朝鮮の兵から大きなダメージを与えられるのです。
いくら戦の天才でも、大海原を渡り朝鮮に行くまでに相当な体力が奪われます。また別の土地で戦をするというのは不利なことでした。
そんな不利な状況もあり加藤清正率いる軍は敗北して日本へ帰還するのです。
疲弊しきった加藤清正軍の兵たち。
しかしその兵を救うのが「馬肉」だったのです。
食べるものがない兵は、戦の中で活躍した馬を食べることをしました。
共に戦った馬を食べるというのは忍びなかったかもしれません。しかし命を守るためには仕方がありませんでした。
憔悴しきった兵は馬肉を食べます。
そうするとどうでしょうか!
馬肉を食べた兵たちはみるみる元気になっていくのです!
そこで加藤清正は兵たちに馬肉を食べさせることが始まりました。馬肉を食べる兵が元気を取り戻し強い男に戻ってきたのでした。
そんな歴史があり加藤清正の居城熊本で馬肉料理、馬刺しが日本に広まっていきました。
熊本がなぜ馬刺しが有名かというと、戦国時代のピンチがきっかけだったということですね。
ピンチの時に必ず光が生じると言いますが、加藤清正のピンチを救ったのはまさに馬刺しだったのです。
今回の熊本地震で大きな被害が出てしまいましたが、その苦難を救うのも馬刺しであってほしいと心から願う管理人です。
会津馬刺しの歴史は戊辰戦争?
馬刺しは会津でも有名です。会津の方に行くと馬刺し専門店や馬刺しが食べられるお店がたくさんあります。
ではなぜ会津は馬刺しが有名になったのでしょうか。それは熊本と同じように「戦争」がきっかけでした。
幕末の混乱時に起こった「戊辰戦争」
この戦争で負傷した人に馬肉を食べさせたことが会津馬刺しの発祥となっています。
平石弁蔵著『会津戊辰戦争』によると、慶応4(1868)年8月、「各方面から傷病者が運ばれてくるので、日新館を臨時病院に宛てて収容し、幕府の医者・松本良順が院長として、蘭法治療を施した。このとき、牛馬を屠殺(とさつ)して、患者に与えたのが、会津地方における肉食の始まり」と記載されています。
この歴史の書からわかるように、馬肉は滋養強壮に優れているということです。
朝鮮出兵で疲弊した兵を救ったのも馬肉。
戊辰戦争で負傷した兵を救ったのも馬肉でした。
戦争という悲しい出来事がありますが、その時も馬というのは人を救ってくれるのです。
馬は人を運ぶという意味でも大きな役割を果たしてくれます。戦の時も馬は大事な存在ですし、近代では馬車として馬が大活躍しました。
そしてピンチの時は「食」として人を救ってくれるのです。こんなにありがたい存在はありません。
私たちは馬刺しという形で馬の命をいただきます。それによって私たちは健康な体を得ることができますし、美味しくいただくことで至福の時間を過ごすことができます。
馬刺しの歴史を通してまた馬へ感謝の気持ちを得ることができました。
これからも馬刺しを食べるときは感謝の気持ちを抱き、日本を救ってくれた馬たちに感謝しながらいただきたいですね。